観光案内
Tourist
1945年4月1日、米軍が沖縄島西海岸に上陸すると、住民はガマ(自然壕)や亀甲墓などに身を隠しました。
読谷村波平区の住民の多くは、村内のチビチリガマとシムクガマに分かれて避難しました。チビチリガマでは住民の「集団死」がおこり、もう一方シムクガマではこのような惨事はおこりませんでした。「生」と「死」を分けたものとは何だったのでしょう。
チビ=尻 チリ=切る
チビチリガマは浅い谷の底にあり、谷川を流れる細い川はガマへ流れるが、どこへ流れ着くのか分からないという事からこの名が付きました。
アメリカ軍の沖縄本島上陸の翌日1945年(昭和20)4月2日、鬼畜(きちく)と教えられたアメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあうという凄惨(せいさん)な地獄絵図を現出したといわれる「集団自決」が行なわれた所です。
この洞窟への避難者約140人の内、無辜(むこ)の住民83人が非業(ひごう)の最期(さいご)を遂げたということです。
後に人々は犠牲者の死を悼み、永久平和を祈念して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」を建立しました。
※チビチリガマへ入壕することは遺族会の意思により禁止されております。ご了承ください。
住所 | 読谷村字波平1153 |
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マップコード | 33 852 212*58
※マップコードはカーナビでの目的地設定にご利用いただけます。 |
シム=下 ク=向く
谷の下にガマがあることからこの名が付きました。
1945年(昭和20)3月、アメリカ軍の空襲は日を追って激しくなり、やがて艦砲射撃も始まるようになると、波平では約1千人の字民がこの洞窟に避難するようになりました。
やがてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい砲爆撃の後、シムクガマに迫って来ました。
アメリカ兵が銃を構えて洞窟入口に向かってくると、人々は恐怖の余りうろたえ、洞窟内は大混乱に陥りました。いよいよ殺されるのだと、洞窟の奥へ逃げ込もうとしますが、足の踏み場もありません。
その時、ハワイからの帰国者、比嘉平治(当時72歳)と比嘉平三(当時63歳)の2人が、「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は人を殺さないよ)」と、騒ぐ避難者たちをなだめ説得して、ついに投降へと導き、1千人前後の避難民の命が助かったということです。
この事実に基づいて波平区では、命を救った二人の先輩に感謝の意をこめて洞窟内に記念碑を建立しております。
※シムクガマを訪れる際の注意
ガマ内に川の水が流れ込んでおり、足場が悪く、雨天の際は水量が増水する恐れがあります。また草むら付近では、ハブにご注意ください。そのため、ぞうり等ではなく、運動靴がベストで懐中電灯・軍手などをご持参ください。
お問い合わせ先 | 読谷村 波平公民館(読谷村字波平61)(TEL:098-958-2229) |
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マップコード | 33 823 780*47
※マップコードはカーナビでの目的地設定にご利用いただけます。 |
「チビチリガマ・シムクガマ」ともに、自由に見学していただくことができます。(ガイドをつけない見学の場合、ご予約は不要です)
※見学 / 平和学習をされる団体(修学旅行)/ の皆様へ
ガマを見学の際は大声で騒がない、他の見学をされている方々への配慮、ごみを捨てない等マナーを守ってご見学をお願い致します。
読谷村観光協会では、「チビチリガマ・シムクガマ」現地での平和ガイドを行っております。(有料)
・ご予約は、催行日の1年前からお受付可能です。直近に関しては2週間前までにお願い致します。お問合せ先:読谷村観光協会(TEL:098-958-6494)